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半田庸太郎 独眼龍将軍と呼ばれた相場師

半田庸太郎は、明治時代の相場師です。隻眼であったとおkろから独眼龍将軍とも呼ばれていました。相場の張り方も派手で大胆であり、呼び名に恥じぬ活躍をした人物です。

半田庸太郎の成功と没落

半田庸太郎は、1869年横浜の平市両替店の小僧から出発しています。最初は両替商でした。その後、独立して1885年には東京株式取引所の中外人となり、株式市場に本格参入しています。

 

勝負所の見極めが抜群だったようで、日清戦争のころに名前が知られるようになります。その実力をみせつけたのが日露戦争の時です。

 

講和条約で賠償金が取れなかったこのを悲観して、株式市場が総売りとなって崩れた際、半田庸太郎は買い向かいます。この買いは大成功となり、半田庸太郎の名は兜町に轟くことになります。

 

勢いづいた半田庸太郎は、鉱山会社を創設して、山師として更に大きなリスクにも挑戦します。この鉱山経営はうまくいかなかったようで、かなりの出費になったようです。

 

半田庸太郎は、洒落たところがあり兜町で衣装改革をした人物でもあります。当時の兜町は、印半天(江戸時代の服装)のままだったのですが、それを詰め襟の洋服を着せて、下駄を禁止して草履をはかせました。それが格好良かったため各店とも半田庸太郎にならい定着していきました。

 

しかしながら、栄枯盛衰は世の常、半田庸太郎にも没落の時が訪れます。

 

1911年、当時上場していた東京の路面電車「東鉄」株で市有化発表を機に株式相場が急騰を演じました。半田庸太郎は、売り方であったため大打撃を受けます。

 

この大失敗で大損となった半田庸太郎は、1914年春に閉店に追い詰められます。

 

弟子だった遠山元一曰く、「あと3ヶ月持ちこたえたなら第一次世界大戦勃発でよみがえっていた」という残念な終わり方だったようです。

 

遠山元一の話から、私たちの教訓とすべき部分が浮き上がってきます。

 

他分野参入は慎重にせねばならない

 

半田庸太郎 独眼龍将軍

 

遠山元一の「あと3ヶ月」が本当であれば、半田庸太郎にもう少し資力が残っていれば勝負が反転した可能性があることになります。

 

半田庸太郎は、ほぼ同時期に「鉱山経営で失敗」しています。この失敗が足を引っ張って最後の踏ん張りが聞かなかった可能性も十分にあるということです。

 

実際、第一次世界大戦勃発時は株式相場も大荒れとなりました。半田庸太郎は、戦争相場に強いので遠山元一の言葉は真実味があります。

 

「相場師は相場で稼ぐのが仕事 本業を忘れてはいけない」」

 

半田庸太郎ほどの人物でも、鉱山経営に手を伸ばしたがゆえに本業の失敗に繋がった可能性がある。

 

私自身、この辺は留意するところです。もともと投資が大好きなせいか、アパート経営や不動産投資などに興味を持つときもあります。でも、「私は投資が本業」と言い聞かせて諦めるようにしています。

 

不動産投資は、副業によいとよく言われていますが甘いものではありません。種々のリスクもあるので、真剣に取り組まなければどこかで足をすくわれることだってあります。株式投資・FXとやっていて不動産投資も成功させるというのは、私にはちょっと困難なことにも感じています。

 

たまに、不動産投資をしている友人に投資の相談をされることもあります。私のアドバイスは、「貴方は不動産で成功している。ならば、全力を挙げてその成功を拡げれば大成功に繋がる。他の分野に進出するより、そのままやっていった方が成功確率は高いから止めておいた方が良い」と伝えます。

 

私は、これからも自分の基本を守りサヤすべり取りを地道にやっていきます。

 

サヤすべり取りの基礎 ●●▲■ 詳細説明

2017/01/24


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